連用日記

最近ふと、

webの便利さは十分享受してるし、楽しんでいるんだけど、

現実に手に取れるもの、身近においておける存在感のあるものに魅力を感じるようになっています。

それはつまり、メールじゃなくて「手紙」や「はがき」「カード」、
ブログじゃなくて「日記帳」

子供がうまれた翌年だったか、カタログハウスの通販生活で見つけた「石原10年日記」(ご愛用の方にはいささか失礼ですが、かなりビジネスっぽい古い感じの日記帳です)を買いました。日記帳にしては高価だったから、買うのに勇気はいったのですが、当時の通販生活で一押しで、その説得力にコロっと行きました。
「10年経ったら、この子はもう10歳すぎてるんだ…そんなの信じられないなぁ」とふにゃふにゃの乳飲み子を抱いて思っていました。
でも、実際、あわただしさにかまけて、たまに開くだけ。連用日記というのは、記入スペースが限られているのに(とくに十年日記はスペースが狭いです)、猛烈にたくさん書いた日もあり、または何カ月も空欄が続いたり。
そんなわけで、意味をなさない10年日記は最初のうちに書いただけで、10年の月日は矢のように過ぎ去ってしまい、タイムアップ。その日記帳にはもう書き入れることはできません。あーもったいない、もう絶対高い日記帳になんて手を出さない、そう思っていたのですが、

引越しの荷物の整理をしていたら、その日記帳が出てきました。
いろんな記録、思い、物事の経緯が、ほんとにマイペースで飛び飛びではあるのだけど、自筆で書いてあることで、忘れていた時間の流れと自分の思いを一気に思い出しました。3x歳の当時の私、こんなふうに考えてたんだー、あーそうだったそうだったーと。自分が書いたことなのに、今よりいくらか若い自分は、なんだか自分ではないような、まるで身近な小説のような、そんな錯覚もあったり。これは実際に実感しないとわかりにくいことだと思います。直筆だからこそ、リアルによみがえる、ふりかかる感覚といえましょうか。

その翌日、私は「五年日記」を買い求めました。十年日記は、今の私の生活には、ちょっと長いスパンだと思ったからです。でも、三年だと短い。

毎日書けないです。私の場合。でもそこにはこだわりません。でも、何日かまとめてでも、この日何があったんだっけ?って思い出して書くのは可としています。
以前の10年日記のときは、少ない記入スペースでは足らずに後方にある予備スペースに続きを書いたり、他の用紙に書いて挿み込んだりしていました。が、そもそも、連用日記に、長い日記を書くのは不向きだと思います。スペースには忠実に、そこに入りきる分しか書かないことにしています。私の場合、ただでさえ、だらだら長文なので、簡潔に書く練習になるかな、というねらいも。肩ひじ張らずに「出来事メモ」くらいでもいいやと思っています。なにも書くことがなくても「お昼に食べたもの」でも「今日着た服」でも。自分ログ。

ほんとは、中学生になった子供に文を書くくせをつけてほしくて「三年日記」(中学生の記録になると思ったから)をすすめたけども、
却下されてしまった…ざーんねん。(でも強制されて書くのはつまんないからねー)

先の十年日記は、子供がうまれたときで、まだ私も若くて、自分のことより子供のことが第一だった。
今は、もっと、自分のことを見つめたい。五年後、また次の五年後、どんなふうな自分でいるか楽しみにしたい。

わたしの五年日記は”ミドリ”のハードカバー洋風ってやつです。
連用日記は、装丁が和風すぎたり、ビジネス調すぎたり、ファンシーだったり、いまいちデザイン的にコレといったのがないのが困りもの。
”ミドリ”さんのにしても、んー、もっとシンプルでいいんだけどなーと思うのですが。
でも自分で連用日記を仕立てるのはめんどうなので、出来合いので。

コクヨさんとか、おっさんくさくなくて、無機質なデザインで作ってくれないかしら。

↓関心空間で「連用日記」やっていらっしゃる方たち(とおもいます)




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